昨日、ふと思い立って友人とランチをしました。連絡はほとんどしないのに、数か月に一度、同じ時期に「会いたいな」と思う。不思議なほど気持ちが重なる関係です。会えば、話題が尽きず、笑いが止まらない。その彼女と、久しぶりに大学の話になりました。
私は大学に入ったときから、心のどこかに「不本意」という思いを抱えていました。受験で思うように結果が出ず、仕方なく選んだ大学。入学してしまえば楽しく過ごせたし、大切な友人もできました。けれども「本当は違う道に行きたかった」という悔しさは、ずっと奥に残っていたのです。
「学歴なんて関係ない」と口にしながら、頭では理解しているつもりでいても、自分自身にはどうしても許しを出せない。こういう感覚は、多くの人に覚えがあるのではないでしょうか。例えば、健康診断で問題ないのに体型を気にしてしまう。あるいは、人から感謝されているのに「私なんて」と思ってしまう。それと同じように、事実と感情のあいだにずれがあるのです。
昨日、友人と話しているうちに、ふと授業の記憶がよみがえりました。新しい教材を取り入れてくれた先生。伝統的な文法をわかりやすく解説してくれた先生。音楽や映像を使って授業を楽しくしてくれた先生。今思えば、すごく恵まれた学びの場でした。「私の大学って素敵だったんだ」と心から感じたとき、胸の奥で固まっていたものが少し溶けていくのを覚えました。
さらに思い出したのは、受験に落ちた日、祖母がかけてくれた言葉です。「神さまが最高の道を用意してくれたんだよ」。当時は信じられずにいました。でも今になって、本当にその通りだったと思えるのです。あのときの悔しさがあったから、出会えた人や経験がある。やっと「18歳の私、よく頑張ったね」と自分に声をかけられました。
誰にでも「やり直したい」と思う出来事があります。あの日の言葉に救われなかった。あの場面で頑張った自分を、誰も認めてくれなかった。そういう小さなつっかえが、心の奥に残っているのです。それは他人には見えなくても、自分を不自由にしてしまう。
でも、過去を違う角度から見直す瞬間が訪れることがあります。ある人にとっては、子どもの成長を見たとき。ある人にとっては、同じ経験をした友人と語り合うとき。そういう小さなきっかけで「やっと自分を許せる」瞬間が来る。昨日の私はまさにそれでした。
長い間の劣等感が、ようやくほどけました。今は、あの大学を出たことが誇りになっています。
過去のつまずきが、未来を支える土台になっていく。そのことに気づけた日は、静かな解放の一日でした。