自分の中の「好き」も「嫌い」も認める

あなたには苦手な人はいますか?その人のことを想像すると、「心がぞわぞわする」「会いたくない」「うざい」と思うなどの、苦手で嫌いな人。例えばこんな人。人によって態度が変わる人。権力者や有名人の前では、ぶりっ子して、結果、その人たちから可愛がられる。でも、そうでない人には、愛想がなくて、無視したり、毒舌を吐いたりする。こんな人は、私は苦手で嫌いです。でも、同時に、その人のことはうらやましい、とも思っています。認めたくないですが、大嫌いなのに、その人のようになりたい、憧れすら感じています。

 

一体、何をうらやましいと思っているのか?どこの部分に憧れているのか?私の場合は、その人が思いのままに行動している、ある意味、自分の気持ちに素直であることがうらやましいです。やり方は間違っている部分がありますが、それで「自分が気に入っている人に気に入られる」ということを達成している。無駄がない生き方のような気がします。

 

 

と、ここまで書いて、ふう〜とため息です。嫌いで苦手な人のことを、うらやましい、憧れだというのは、なかなか勇気がいります。だって、嫌いで苦手な人とは、そばにも寄りたくないと思うからです。でも、苦手で嫌いな人の「ここが嫌!」を感じるのは、自分の中にも「同じもの」を持っているからです。そうでないと反応しない。どうでもいい人には反応しないのです。そして、それが「自分の中にある」「あの嫌いな人は私だ」と思った瞬間に、その人の嫌いな部分が、エネルギーとして自分の中に入ってくる。正確に言うと、「同じようなエネルギーを所有している」と認めるという感じでしょうか。

 

私たちは、自分の中に好きな部分と嫌いな部分があります。どちらの部分も同じくらいのエネルギーを所有しています。自分の好きな部分は表に出すことにも、割と躊躇なくでき、エネルギー全開の状態になれます。でも、嫌っている部分は、出さない方にエネルギーを使ってしまいます。そして、出さないことで、嫌いな部分は動きがなくなり、段々と腐っていってしまいます。例えば、水が溜まっているところに水の動きがなくなったら、腐りますよね。それと同じことが起き始めます。なので、自分の嫌いで苦手な人が現れた時は、自分が苦手で嫌いな部分に気づき、表に出すチャンスです。

別に、嫌いな人の行動そのままで出す必要はありません。例えば、先程の例ですが、「有名人や目上の人に可愛がられる」ことが嫌なわけではないのです。やり方は褒められるものではないのに、結果的に「可愛がられている」ことが嫌なのです。ならば、「可愛がられたいなあ」という気持ちを素直に出せばいい。下手に隠そうとするから、うまくいかなくなるのです。自分の気持ちを素直に出す。いきなり出すことに抵抗のある人は、「可愛がられたいなあ」という気持ちを素直に認める。

 

自分の中の「好き」も「嫌い」も含めて自分。どちらの自分も認めて、受け入れるあげることができたら、きっと世の中はもっと生きやすくなるのではないか、と思います。