才能は「苦(くる)楽(たの)しい」もの

「才能」とは、特別な人にだけ与えられるもの、例えば、野球選手のイチロー選手や将棋の藤井聡太さんのような、ごく一握りの人たち、長年、このように思ってきました。なので、「才能とは誰もが持っているもの。ただ、当人には当たり前すぎて、自分では才能とは気づかない」ということを知ったときは、大変驚きました。

 

特別努力をしたわけでもないのに、なぜか、最初からうまくできて、「他の人も同じようにできるんだろう」と思ったら、そうでもないらしくて、でも、当たり前に出来すぎるから、とても特別な能力とは思えない、、、。それが才能。

この視点で考えると、私にも「才能」と呼べるものがあることに気づきます。私の才能は「どんなネガティブな話でも何時間でも聞いていられる」こと、「大勢の前でも緊張せずに話せる(話す内容をある程度は決めている場合に限る)」こと、「興味あること(好きなドラマ、好きな著名人の講演内容など)については、メモを取らなくても、ある程度覚えていて、順序立てて話すことができる」ことです。2つ目の「大勢の前でも緊張せずに話せる」は、教師を長年やってきたので、慣れもあると思いますが、話す内容が決まっていたら、それほど緊張しません。500名までは大丈夫です。(その先は経験ないので、わかりませんが、、、 )

でも、どれも、まさか、才能とは思っていませんでした。気づいたのは、上記の3つについて、他の人に話したことがきっかけでした。「そんなこと、私できないよ。」と言われて、「へ?そうなの?」と思ったくらい、それくらい、当たり前にできることでした。でも、何の役にも立たない、と思っていました。

ですが、これらの才能はいずれも、カウンセリングを行う上で、とても役に立っています。クライエントさんのお話は、ネガティブな話題も含まれます。ネガティブが平気、というよりも、耐性が付いている、という表現がぴったりきます。大勢の方の前でお話しする機会が年に数回ありますが、話す内容がある程度決まっっていれば、直前までドキドキしていても、本番になるとすっと落ち着きます。また、クライエントさんの話は、私にとってとても興味があるので、自然に頭に入ってきます。

 

このように、「才能は楽し(たのし)」です。

 

 

ただ、自分の才能に気付き、それを職業にすると、同時に「苦し(くるし)」も感じます。才能があることは、自分で「もっともっと!」と、成長を望みます。なぜなら「これが最高の状態」という目標があるからです。この高い目標に対して、「今の自分では全く届いていない、まだまだだ」と思うと、絶望にも似た感覚になります。した。

私には尊敬するカウンセラーがいますが、対峙すると、なんとも言えない敗北感を味わいます。敗北感を味わう、ということは、お二人と競争しているということなので、それも、「なんだかな〜」というなんとも言えない気持ちですが、目指す限りは「この最高地点を!」と思います。

自分の才能のレベルの低さに落ち込みつつ、でも、自分の良さを書いたノートを何度も読み返しながら、落ち込みから抜け出し、自分のいいところも認めて、「あのレベルに達するようにがんばろう!」と努力する日々です。

才能は気づくのは「楽し」、そして、気づいた瞬間から「苦し」も同時に始まります。そして、この両方を感じるから、才能にますます磨きがかけられる、のだと思います。